「みんなが寂しがるから、天界に行くと言ってはいけないって言ってくれたのは、イルシアさんが最初で最後だった。その約束、絶対に守りたいんです。わたくしにとって大事な約束だから」
「マリエ・・・」
イルシアは涙が滲んでいるマリエを見つめて一瞬迷ったが、覚悟を決めて彼女の身体を抱き締めた。
「イルシアさん・・・」
「俺、ここにいる」
「でも」
「俺はあんたを信じる。自分を取り戻して、もうひとりの自分に打ち勝つって」
抱いている手に力をこめる。
「信じたいんだ。俺はいつも、人を疑ってばかりいたから。あんたを信じたい」
レビイのように信じる心をもって、強くなりたい。
そう。信じることが大切だと教えてくれたのは紛れもなく、マリエだったのだから。
身体を離し、マリエを見つめる。
「エラマ様もチャウラも、そして俺も。あんたには〝マリエ〟でいて欲しいから」
微笑むイルシアを見たマリエの目に、大粒の涙が溢れ落ちた。
再び抱き寄せられたマリエは、イルシアの胸に顔を埋める。
「もう絶対、自分の心を見失いません」
イルシアがそばにいれくれればきっと、〝マリエ〟としての意識がかき消されることはない。自分の存在を求めてくれる人がいれば。
「イルシアさん・・・」
彼の背中にしがみつきながら、呪文のように何度も唱えた。
「わたくしは、〝わたくし〟を取り戻す」
マリエは念じた。心の中で。
『取り戻す？馬鹿げてるわ。私に勝てると思うの？だって私は・・・ううん、私達は魔界を開く為に生まれたのよ』
〝魔王の花嫁〟が叫んでいる。
マリエは首を振った。
「確かに、わたくしに流れている魔人の血は消せない事実。でも生まれた意味なんて、たった一つだけではないと思います。あなたは魔界の為に生まれたと思ってるかもしれないけれど、わたくしは違うんですもの」
『それじゃあ何よ。あなたの生まれた意味って？』
「・・・。・・・。分かりません」
『なにそれ』
嘲り笑う声。
だがマリエは毅然とした態度で、「ただ、定義づけすることができないだけですわ。たくさんありすぎて」と言い返した。
「父様や母様に出会うために生まれたのかもしれないし、チャウラに出会うためだったのかも。でも今は、イルシアさんと出会うために生まれてきたのかもしれないって、思ったりもします」
『イルシア・・・ね。そんなに強気でいられるのは、今そばに、そいつがいるから？』
頷くマリエ。
先程はこの〝魔界の花嫁〟に意識を乗っ取られたが、今は大丈夫だ。イルシアがそばにいて、マリエの意識をつなぎとめてくれている。
「わたくしは、この世界が好きです。大好きな人がたくさんいる世界を魔界に染めたくありません」
それを聞いた花嫁は、声高らかに笑った。
『笑わせないでよ。あなたを快く受け入れてくれるような世界でもないのに？自分自身が否定されるような世界のどこがいいのよ』
「え？」
『あなたが好きでも、世間は魔物使いのあなたを白い目で見るわ』
「それは・・・」
そのことに関しては、マリエも答えに窮した。黙っていると、追い討ちをかけるようにもうひとりのマリエが囁いた。
『あなたは魔物使い。人間に蔑まされるべき魔物使いなのよ！』
「わたくしは・・・魔物使い・・・」
何をすればよいか分からない。
ただこうして、彼女を抱き締めることしかできない。そして彼女を信じることしか・・・。
イルシアは額に汗を浮かべ、苦悶の顔で唸っているマリエを心配そうに見つめた。
すると彼女の口から「わたくしは・・・」という言葉が漏れてきた。
「わたくしは・・・魔物使い・・・」
その悲しげな表情に、イルシアは胸が締め付けられるような気持ちになる。結局、女神の血と魔人の血を引いて生まれたのは、消せない事実なのだ。そして魔物使いだということも。
彼女は自分の存在に戸惑っている。困惑している。
イルシアはマリエの頬に触れた。
「大丈夫。魔物使いだって、ユーリーぐらいなら俺、我慢できるから」
そう呟くと、マリエはそっと瞼を開けた。
彼女はやっぱり、泣きそうな顔のままだ。
「イルシアさ・・・ん。ホントにいいんですの・・・？魔物さんのこと、お嫌いなのに？」
「え！？い、いや・・・無闇に召喚して欲しくないけどな」
眉間に皺を寄せたが、すぐに口の端を上げ、ニッと笑った。
「でもさ、あんたが魔物使いじゃなくなったら、いつもの〝マリエ〟じゃなくなっちまうだろ？そこまで無理して、魔人の血を否定することもないんじゃないかと思ってさ」
もちろん、魔界の花嫁にもイルシアの言葉は聞こえている。
『バカみたい。たったひとりの男が自分の存在を認めてくれただけで、人間界に固執するなんて。どうかしてる』
そして『ご愁傷様』と言って、花嫁は奥底に眠りについた。
イルシアという男が、魔王の花嫁を含めたマリエを守り、大切にしてくれることを信じて。
「イルシアさん・・・」
マリエは安らぎの顔でイルシアに向かって、にっこりした。
「イルシアさんの・・・おかげです」
その笑顔は疲労のために心許なかったが、〝マリエ〟が完全に戻ったことを知ることがきた。
「良かった！」
知らず知らず、思い切りマリエをかき抱いていた。
「うっ」と圧迫されてうめくマリエ。
「ご、ごめん」
「いいえ。いいんです・・・」
そう言いながらイルシアにもたれかかった。
イルシアもマリエを優しく抱き締めた。
が、喜びも束の間。
二人の脇から、巨大な影が忍び寄った。
先程倒した筈の血まみれの巨人が立ち上がっていたのだ。イルシアらを掴み上げようと、腕を伸ばしてきた。
それにいち早く気付いたイルシアはマリエをかばい、地面に倒れた。
背中に激しい痛みが走った。
振り返ってみると巨人の鉤爪には、イルシアの衣服の切れ端と血が付着している。
「ぐっ！」
背中から、生温かい血が懐に流れてくる。
しかしイルシアは落ちている抜き身の剣を素早く拾い、巨人に向けて投げつけた。それを避けられるはずの巨人だが、瀕死の傷を負っているためにできるわけがない。
剣は見事に左胸に突き刺さる。
復讐を遂げた魔物は、今度こそ二度と起き上がることなく倒れた。
「イルシアさん!!」
「くそっ、ちゃんと仕留めてなかったらしい・・・な」
跪（ひざまず）き、倒れかけのイルシアをマリエは抱きとめた。
「し、しっかりして下さい！」
咄嗟に彼の背中の傷の具合を確かめる。
マリエはそれを見て顔面蒼白になった。傷口がかなり深く、出血もひどい。
「わたくしのことなんて、かばわなくたって・・・！」
「とりあえず、あんたの護衛だからな・・・。それに・・・命はかけていたから・・・」
「いや！イルシアさん、死んじゃいやです!!」
泣きながら訴えるが、段々意識が遠のいているのかイルシアはふらついている。それに虫の息だ。
間違いなく、イルシアの命が持たないのは目に見えていた。
「イルシアさん、イルシアさん!!」
血の海の中で、マリエは泣き崩れた。
第２０話 [ 完 ]
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