望みは空より果てしなく

〜　第４部　いさよう月　〜

第 20 話

絶体絶命（４）

揺さ振って起こそうとしたが躊躇した。もしかしたらまた、先程のように襲ってくるかもしれない。 「このまま起こさない方がいいか・・・」 　しかし打ち所が悪くて、ずっと目覚めないかもしれない・・・という不安もある。 　ふと、茂みの向こうで剣の喧騒が聞こえた。 密かに窺ってみると、どうやら一騎打ちのようだ。あのなりは、アサエルとエラマだろう。 　アサエルの注意がこちらに向いていないこの機会に、マリエを正気に戻す良い方法がないか考えあぐねてみるが、解決方法は一つしか浮かばない。 「彼女をルーナの元に行かせる」 　それが今、思いつく最善策だった。 魔人としてのマリエよりもまだ、月の女神として生きて欲しい。天界へ導いてもらえば、彼女の身の安全は間違いない。 あの世界までは魔王とて、手出しはできない筈だ。 　今ここでルーナに願えば、月の女神は喜んでマリエを天界へ導いてくれることだろう。 だが、人間として人間界に生き残って欲しいという思いの身としては、それは出来ないでいた。 「う・・・」 「！」 　マリエは意識を取り戻そうとしている。 複雑な気持ちを抱きつつも、やはり無事だったという安堵感が先行して、思わず名前を叫んでしまう。 「マリエ・・・」 「・・・わ、私は、魔王の・・・花嫁」 　イルシアを殺そうとした時の声音ではなかった。月謳を口ずさむ、いつものあの声だ。 もしかしたら正気に戻りかけているのかもしれない。苦しげにうめいているマリエの手を握る。 「マリエ」 　いちかばちか、呼びかけてみる。 「魔界の、為に・・・生まれた・・・花嫁・・・」 　イルシアは首を振った。 「魔王の花嫁なんかじゃない。あんたはいつもすっとぼけてて、しまいにゃ他人に迷惑ばっかりかけるけど、心の優しい女だった。あんたはマリエだ。・・・頼むよ、頼むから戻ってきてくれ」 　頭をうなだれ、哀願するイルシアに反応を示したのか、マリエの手が微動し、イルシアの手を握り返してきた。もう一方の手は何かを探るように、イルシアの頬にたどり着く。それと同時にゆっくり瞼も開けられる。 「・・・イルシア・・・さん」 　イルシアの表情が明るくなる。いつもの翡翠の瞳だったから。 「いつもの、すっとぼけた巫女のままか！？」 　頬に置かれている手を握り、彼はマリエの顔に詰め寄った。 マリエは力なく笑い、こくんと頷いた。 「・・・イルシアさんが、呼んでくれたから・・・わたくしのこと」 「良かった・・・」 　安堵感で胸を撫で下ろす。が、マリエはイルシアの胸をおしやってくる。 怪訝顔の彼に「わたくしのことは放って、逃げて下さい」と、辛辣な面持ちで呟いてきた。 「なんでだよ？」 「・・・またいつ、もうひとりのわたくしが現れるか分かりません。完全に消え去ったわけではないから・・・まだ感じるんです。身体のどこかに魔界を開こうとしている心が・・・」 「そんな弱音吐いて、お前らしくないぜ。そんなのどうってことないだろ。たった今、覚醒された血なんかが、十何年生きてきた『マリエ』としての人格に勝てるわけがない！」 「魔人の血は・・・思ったより強かったみたいです。また、さっきのようにイルシアさんを傷つけてしまうかもしれない」 　イルシアの安否ばかりを気遣うマリエは、「逃げて」の一点張りだった。 「その魔人の人格から、逃れる方法はないのか！？」 　叫ぶイルシアの頭の中に、浮かんで欲しくなかった名案が過ぎった。だがマリエを魔人にさせないためには、確実な方法だった。 「・・・ルーナに・・・月の女神に祈るんだ」 「母様に？」 　イルシアは力強く頷いた。 「天界に連れていってくれるように」 「イルシアさん、どうして・・・。そうしたらわたくし達、二度と会えなくなってしまいます」 「今はそれしか方法が・・」 「・・・やっぱり、わたくしが天界に行っちゃえばいいと思ってたんですね？」 　苦しいくせに、しっかり非難口調のマリエ。 「あのなあ・・・。そんな事、言ってる場合じゃないだろ？今のあんたを思ってこそだ。・・・俺だって、お前とは戦いたくない。魔人なんかより、女神の方がまだマシだから」 　マリエが導かれれば、間違いなくこの世界も平穏無事のまま、そして何よりマリエも幸せになれる筈だ。天界に行けば、母親のところへ行ける・・・。 　ふと、母を焦がれていた小さな少女のことを思い出した。 「マーユは・・・マーユはさ、月にいるという母さんに会いたがっていた。成長したマーユだって、その気持ちはまだ残っている筈だろ？魔人になってしまったら、エラマ様にだってルーナにだって会えなくなるんだぞ！」 「・・・それでも出来ません」 「どうして！」 「イルシアさんとの約束、破ってしまう」 「約束？」 「はい・・・月の約束。天界に行きたいなんて言わないって・・・イルシアさんと約束しました」 　四歳の時、未来へ飛ばされ、そこで出会ったイルシアと約束した――――イルシアにとってはつい先日の約束。そしてマリエにとっては、十四年越しの約束。 「あれは・・・」 「父様もチャウラも、わたくしが母様に会いたくて月に行きたいと言う度、悲しい顔を見せました。でも引き止めはしませんでした。わたくしには分かっていたから。二人にはそれが出来ないっていうこと･･･。次期ルーナになるか、人間界に残るかを決めるのは、わたくし自身ですから。それが運命だから。・・・だけどやっぱり、誰かに止めて欲しかった」 　初めてだった。 マリエの救いを求めるような瞳を見たのは。