眠りから覚めたマリエをアサエルは腕の中に抱いた。
「お前は誰だ？」
「私は・・・魔王の花嫁・・・」
「いい子だ。安心しろ。お前のその魂はもう、心の奥底に沈められることはない」
アサエルの抱擁を拒絶することなく、マリエはされるがままになっていた。
だが嬉々としていたアサエルの表情が突然、険しくなる。
「またあの男か。しぶとい奴だ」
イルシアが崖を上ってきていたのだ。
アサエルは両手を広げ天を仰ぐ。すると暗雲の隙間から、黒い稲妻がその手の中に走った。凝縮され、それが球体になったところで、イルシアに向けて放つ。
イルシアは一段低い岩に飛び移り、その妖術を避けることができたが、元いた崖は見事なまでに半分がえぐりとられてしまっていた。
イルシアはアサエルを恨みいっぱいで睨みつけた。
「彼女を放してもらおうか」
「残念だが、彼女はお前のところへは戻りたくないようだが？」
アサエルに抱きつき、イルシアを見下ろしているマリエは、イルシアの知っている彼女ではなかった。あの穏やかさが微塵もない。
「操られているのか・・・」
「操ってなどいない。これがもうひとりのマリエの姿。魔人の血を覚醒させたのだよ」
「・・・！」
イルシアは愕然とした。
マリエならばありうる事だった。彼女は何より母であるルーナを愛しているが、その母とは相対する魔物達も慕っている。光だけでなく闇さえも受け入れる彼女に、覚醒できないわけがない。
女神に近い存在でもあるが、魔人にも近い存在なのだ。
「この女はもう、マリエという名すらない。生を受けた本来の使命を全うする、『魔王の花嫁』だ」
意気揚々と言うアサエルに、イルシアは無性に腹がたった。あまりの怒りで震えが止まらない。
「そいつは魔王の花嫁でも女神でもない。ひとりの人間の女だ。彼女はそれを望んでいた！」
以前、チャウラの屋敷にある庭園で語り合った。
少数の人々の中で、『マリエ』として生きていきたいと彼女は教えてくれた。
アサエルの目はふっと細まって、イルシアを見下した。
「それは、お前の都合だろう？」
「俺の？」
「この女が女神か魔王の花嫁にでもなれば、お前には手の届かぬ女になるのだからな」
「・・・。ただ、そいつにとっては幸せなことだと思っただけだ」
確かにただの人間として生きてくれることを、イルシアも心のどこかで望んでいることだ。しかしそれは、マリエの意思を尊重してこそのことだ。
「どっちにしろ手遅れなんだよ。目の前にいる彼女はもう、我々の仲間となった。さあイルシア。どうする？彼女を斬れるか？」
「・・・どういうことだ」
アサエルはマリエの顎に手をかけ、上を向かせる。
「魔王の花嫁よ、」
「はい・・・」
「あの男が、お前の生きる意味を打ち砕こうとしている。お前にとって、あまりにも邪魔な人間なのだ。・・・そうだな、一息に殺すのも芸がない。あの男をなぶり殺せ」
「はい・・・」
マリエは手を前に広げ、イルシアに向かって召喚した魔物を放った。
「その男を食い殺すのよ」
マリエの指示する姿に、イルシアは舌打ちする。
「くそっ」
「ハハハハ。気分はどうだ、イルシア。最愛の女に殺されそうになるというのは？」
「勝手に決めつけんな！こんな図太い女なんて、誰が最愛の女にするもんか！」
「減らず口を叩けるところを見ると、まだ余裕のようだな」
「そうでもないぜ！」
襲いくる魔物らを薙ぎ払っているうちに、マリエが岩壁を越えてイルシアのいる岩へ飛び移ってきた。
「人格が変わると、そんな身軽になれるとはね」
普段のマリエでは考えられないことなので、変に感心してしまう。しかも細剣を使って、攻撃してくる。
「どうした、イルシア！女ごときに押されているとは情けないぞ」
「うるせえ！外野は黙ってろ！！」
剣術はイルシアの方が断然上だから簡単に倒せるのだが、相手がマリエだけに傷つけることができなかった。たとえ中身が変わっていたとしても彼女は彼女だ。
「やめろっ・・・て！目を覚ませ！」
「殺す！」
険しいその形相はいつもより大人びて美しく見えるが、殺気だった瞳はマリエのものじゃない。いつも見る瞳ではない。
「思い出してくれ！俺だ、イルシアだ！」
埒のあかない戦いに、イルシアは知らず知らずマリエを崖っぷちにまで追い詰めていた。
「きゃっ」
一歩後退りしたマリエが足を踏み外してしまった。下には足場がない。
その行き先は崖下だった。
マリエを助けようと咄嗟に手を伸ばしたイルシアも、一緒に下に落ちていった。
「しまった！」
潅木（かんぼく）の茂みの中に消えた二人を追おうとアサエルも地上へ降りたが、彼の前に突然エラマが現れ、まだ輝きを保ち続けている剣で斬りかかって来た。
アサエルは携えていた長剣で、素早くそれをかわした。
「エラマ・・・まだ生きていたか。よく、あの魔物の群れの中をかいくぐってきたものだ。褒めてやるよ」
「光栄だな」
アサエルとエラマは、改めて相向かい合った。
月の女神はいまだ振り向いてくれないが、幸運の女神は振り向いてくれたらしい。
落下した際、潅木がクッションになって、イルシアもマリエも無傷に近い状態だったのだ。イルシアはしたたか背中を打ち、マリエは意識をなくしてはいたが。
イルシアは痛みを堪え、倒れ伏しているマリエの元に駆け寄った。
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