望みは空より果てしなく

〜　第２部　真　実　〜

第 ８ 話

誰がための選択（１）

あらゆる恵みを与えてくれる森は日が落ちると、閑散とした心細い場所に変わってしまう。 「でも・・・月は見える」 　ふと見上げると、おぼろげに浮かぶ白い月がこちらを見つめていた。 どんな遠い地へ行ったとしても、ルーナとは必ず逢える。見守ってくれている。 　けれどそれを心の拠（よ）り所にしたとしても、結局はひとりぼっちなのだ。 月は喋ってくれないし、笑ったり叱ってはくれない。 触れ合うことも、温もりを感じることもできない。 　マリエはふと、イルシアの顔を思い浮かべた。 「イルシアさん、ごめんなさい」 　今頃は、戻ってこないマリエに気付いているだろう。黙って出てきてしまったから、心配をかけているかもしれない。そう思うとマリエの胸は痛んだが、自分の試練にイルシアやレビイを巻き込みたくはなかった。だから父がいるというガースッドの森へ再び、一人でやってきたのだ。 　臆することなく、森の奥深くへ進み続ける。 後戻りはできない。戻る道は既に分からなくなっているのだから。 　いつの間にか、月光さえ届かない茂った場所にいた。 鬱蒼としていて、近くには沼地が見られる。暫く立ち止まっていると、一陣の激しい風が吹いた。 目前で、木の葉の渦が巻き上がる。 　その中から突如、人影が現れた。 「とうとう来ましたね。マリエ殿」 　マリエに出会えた歓喜の口調ではあるものの、冷静な声音だった。 その者は短い呪文を唱え、掌から光の球体を浮かび上がらせた。一面が明るくなり、姿があらわになる。 　女性だ。 裾野の広がったローブを着用しており、漆黒の髪は長い。 「こんばんは。バイブ様」 　マリエは彼女の出現に別に驚くふうもなく、穏やかに笑みを浮かべただけだった。むしろ、バイブが現れることを予測していたようだった。 　意表をつかれたのか、バイブは口を歪めた。 「こちらの誘いに、こうも簡単に引っかかるとは思いませんでしたね」 「ええホント。見え透いた罠ですわ。バイブ様の間者に、あんな占術者さんがいらしたなんて存じ上げませんでした。お弟子さんですの？あの方、まだ修行が足りませんわ」 　首を傾げ、すまし顔を見せる。それこそバイブの機嫌が損なわれた。 「・・・。では、あなたは私の罠だと知っていながら、ここに来たと？」 　マリエは軽く頷いた。 「バイブ様とは一度、ゆっくりお話をしたかったんです」 「戯言を。まあいいでしょう。結果的には、あなたをこの場所へ誘い出すことができたのだから」 　髪をかきあげ、不敵な笑いを見せた。 「この場所には、あらかじめ結界を張っておきました。私以外の者の魔法や特殊能力は一切、効かない。それに御覧なさい。ここからは月が見えない」 　密集した木の葉が屋根を作り、わずかに空の景色を覗かせているだけだ。 「これで忌々しいルーナの加護も届かない。あの女神のせいで何度となく、マリエ殿を捕らえる機会を失いましたからね」 「まったくですわ。この十三年間、全て失敗してますものね」 　嘲るわけでもなく、マリエはまるで思い出を語るかのように懐かしげだった。そういった態度が、ますますバイブの腹を煮えくりかえすのである。 「バイブ様もよく懲りませんわね。この長い年月の間、魔界の扉を開ける事しか考えていなかったんです？」 「偉大な事を成し遂げるには、時間など惜しまない」 「もったいないです。扉を開けるためだけの人生なんて。世の中にはもっと、楽しいことがたくさんあるのに」 　バイブは高笑いをした。 「私は自分の生き方が楽しいと思っていますよ。十三年間、世界を変える思いを抱いているのですから」 「あなたは宮廷魔術師です。扉を開かなくとも、世界の情勢が気に入らないのなら、国王に進言すればいいではありませんか？」 「フフフ・・・。マリエ殿は、まだ考えが子供でいらっしゃる。そんな簡単に、世界を動かすことができるとお思いですか」 　世界規模の話など、レイランから出たことのないマリエには理解できない。それでも確かに、難儀な道だとは分かっている。 「世界ばかり見ているだけではもっと細かい、もっと小さな自分がおろそかになってしまいますわ。わたくしは常々、バイブ様には人間としての幸せに気付いて欲しいと思ってるんです」 「人間としての幸せ？」 　怪訝に眉間を寄せるバイブ。 「十三年前のあなたはまだお若かったでしょうけど、あれから確実に歳はとっているんですのよ。若気の至りのために、バイブ様は自らを破壊してらっしゃる。結婚してお子様がいて、幸福な家庭を築けたかもしれないのに」 　マリエのその言葉が気に食わなかったらしく、バイブは鋭い目つきを見せた。 「私に、普通の女のように生活されよ、とおっしゃるのですか」 　マリエは頷いた。 「たくさんの人に囲まれて生きる幸せ。辛い事だってありますけど、支えられることだってあるんです。そんな人々の愛情を感じることができれば、暗黒の世界にしようなど誰が思うでしょう。みんなが幸せに生きられるようにと願うものです」 「教えてあげましょう、マリエ殿。人間にはそれぞれの運命があるとね。あなたのように朗らかに、他人に囲まれて生きる幸せに恵まれず生まれる者もいるのですよ」 　それが我が身にふりかかったのだと、バイブの瞳にふっと影が落ちた。が、すぐ視線はマリエに移った。 「あなたはご存知の筈。私は邪神アメシアの教徒だということを。魔界の世界は、私達の新天地なのです。黒の世界になることこそ、アメシア教徒の幸福なんですよ」 「それは一部の人間の考えです。大多数の人々にとってみれば、恐慌に陥る原因であり不幸の始まりです」 　人間界が魔界に染まるとしたら、この森も竜の湖もあらゆるものが死を迎えるだろう。 活気に満ち溢れた街も国もなく、ただ一日をどう生き延びていくかの日々を送るだけなのだ。希望も未来も消え去る世界になる。 「さて、説教はそれぐらいにして頂けますか？今のお話で、マリエ殿は『鍵』になる意志がさらさらない・・・ということは分かりました。まあ、私もそのつもりでこうして罠を仕掛けたのですがね」 　不敵な笑いを浮かべるバイブを、悲しそうにマリエは見つめた。 「あなたはかわいそうな人。愛することを知らない。それに愛されることも。だから暗闇を求めることしかできない」 「なんとでも。私は孤独でも生きていける」 　口の端をわずかに上げ、静かに右手を掲げた。すると見上げるほどの黒い球体が現れ、マリエ目掛けて飛んでいった。 マリエはその球体を避けられず、接触した途端、激しい衝撃が走った。 「きゃっ」 　気付くと、マリエは黒い球体の中に閉じ込められてしまっていた。 内側から表面を叩き割ろうとするが、びくともしない。 「その中では魔物も召喚できないし、ルーナの加護も及びませんよ」 　長年の願い――――扉を開けるための生け贄であるマリエを手中に入れ、バイブは歓喜する。 その傍らでマリエは魔物を召喚するのを諦めていないのか、瞼を閉じて何やら詠唱している。 「無駄なことを」 　バイブは嘲り笑った。 その時、彼女の足元に短剣が突き刺さった。